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光という名の彼

 降りしきる粉雪が視界を遮り、目に見える景色すべてを灰色に変えている。
 わずかにも動くものすらない無音の風景の中、じっと門の前にたたずみ、久城悠月はゆるやかに下っていく坂道をみつめている。村中へと続くその道は今は雪に霞んで、行く先は息苦しいほどの純白に閉ざされてしまっている。
 ただひたすら静かで冷たいモノクロームの風景に自分自身も閉じ込められてしまったようで、淡い恐れのようなものを感じた久城はゆるく息を吐いてみた。吐く息は白く、ほのかに温かい。凍った静止画の一つのピースになるには、まだ多少の生気を保っているようだ。
 坂道の下に群青の影が見えて、久城は人形のようなガラス玉めいた瞳を瞬く。グレーの景色の中唯一色がついたその青い影は見る間に近付き、次第に形を明確にしてくる。
 深い藍色の飾り気のないシンプルな制服を着て、制帽を目深にかぶった青年だ。積もり始めた雪道をものともせずに、長く緩やかな坂を彼が自転車で登ってくるのを、久城は微かな驚きとともにみつめる。
 この時間に来ると知っていたわけではないのだけれど、なんとなく予感めいたものを感じて、門の前まで出て待っていて、よかった。
 ――光、くん……。
 5日前、村の外れの吊り橋の上で出会った彼が胸につけていた、『光』という字の書かれたプレートを鮮やかに脳裏に蘇らせる。同時に、冷え切った自分の体を背中から抱き止めたその腕の強さと、心地よい熱を思い出す。
 それは平淡で静寂に満ちた日々の中、突然訪れた思いがけない出来事だった。
 彼は久城が吊り橋から飛び下りようとしていると思い、止めたのだと言った。そんなつもりはない、と否定したけれど、実際はどうだったのだろう。
 確かに、死ぬつもりはなかった。けれど、この世になんの未練も心残りもなかったのは事実だ。吊り橋から一望する荒々しい自然の景色は壮大で、ゴォゴォと音を立て遥か眼下を流れる渓流を見ていたら、そのまま引き込まれていきそうな気がしていた。
 彼が止めなかったら、もしかしたらそうしていたかもしれない。
 ――光君は、本当に郵便配達人だったんだな……。
 疑っていたわけではない。ただ、もしかしたら彼との出会いそのものが夢だったのではないかと、あとから自信がなくなっただけだ。
「こんにちは、久城さん」
 いつのまにか目の前に来ていた配達人の彼は見るからに年季の入った自転車を降り、わずかにも息を切らせずそう言って笑いかけてきた。
 余計な挨拶なんかしないで郵便だけ渡してさっさと帰ってくれればいいのに、と幾分わずらわしく思うと同時に、この村に来てから初めて誰かに笑顔で挨拶されたことが新鮮で、久城はためらいがちにわずかに顎を引く。
「今日は寒いですね」
 まろやかに微笑む彼の周囲だけ、温かくやわらかい光に包まれているように見えて、目の錯覚かと久城は何度も瞬く。胸の奥を羽でくすぐられるような妙な感覚にうろたえながら、まっすぐにみつめてくる澄んだ瞳から逃れるように目線を落とすと、彼が胸につけたプレートが目に入る。
 ――光本、洋介……あぁ、名前だったのか……。
 そういえばあのときも、彼は名乗っていたかもしれない。よく、覚えていないけれど。
「コートも着ないで、寒くないですか?」
「別に」
 そっけなく返し、顔を上げた。無愛想な態度にも気を悪くした様子はなく、光という姓を持つ青年は変わらぬ笑顔を見せている。
 逸らさず見下ろしてくる優しげな眼差し。耳に心地いい低音のやわらかい声。きっと彼は誰にでも、こんな笑顔でこんなふうに話すのだろう。得体の知れないよそものに対してでも。
 居心地の悪さと不可解な心地よさの両方を感じ、久城は視線を流した。
「はい、今日の郵便です」
 待っていたものを差し出され、わずかに兆した動揺を完璧に隠し受け取った。ただの一枚の絵葉書だけれど、ちょっと強く突かれれば折れてしまいそうな久城を支えている唯一のもの。初めて愛した人との間に残る絆の証し。想いの欠片。
 それが透明のビニールにきちんと包まれているのに気付き、久城は問いかけるように郵便配達人を見た。
「雪なので、濡れるといけないと思って」
 少し照れたように光の青年が笑う。
「そう。どうも」
 彼の目を見返し、たった二言返しただけなのに、その表情は面白いほど変わった。大きな瞳がびっくりしたように見開かれ、嬉しさを噛み締めるような微笑みが男らしく整った顔をチャーミングに彩る。
 見ている久城の方が恥ずかしくなってしまいそうな素直な反応に、凍っていた心がわずかに揺らされるのを感じ、久城はうろたえてしまいそうな表情を隠すように背を向けた。
「それじゃ、失礼します」
 明るい声で挨拶し、自転車にまたがり雪道を走り下りていく後ろ姿に、「気をつけて……」とためらいながらかけた小さな一言は、おそらく届かなかっただろう。
 真っ白い景色の中に藍色の背中が消えていくまで、久城は身じろぎ一つせずに見送っていた。
 そういえば彼は、吊り橋でのことを一言も口にしなかった。なんとなく触れてはいけないことだと心得ているようなその態度に、自分に対するさりげない気遣いを感じ、久城は好感を持つ。
 少なくとも彼は、久城のことを『うさんくさいよそもの』と疎んじてはいない。誰にどう思われようが別にどうでもいいと思っていたのに、あの優しい瞳の青年に嫌われるのだけは、なぜだかつらいような気がした。
 向けられたおおらかな笑顔や少し照れたような魅力的な微笑を思い返すと、棘立っていた心がまろやかになってくるようだ。次に来るときも『こんにちは』と心地よい声で挨拶し、『寒くないですか?』と聞いてほしいなどと、つまらないことを望んでしまいそうになる。
 こんな僕でもまだ人恋しいのかな、と、久城は形のいい唇に苦笑を浮かべる。
 ――光本、洋介君……また10日後に。
 光の郵便配達人が消えていった方に向かってそっとつぶやいた瞬間、『何もないはずのこれからの10日間』が『待つ楽しみのある10日間』に変わった。
 どんな未来も考えられなかった自分に突然もたらされた、ささやかすぎる小さな楽しみ。
 ――今日はちょっとだけ、気になることができたよ……。
 手の中の絵葉書に向かって、久城は心の中で報告した。

☆ END ☆


読んでくださり、ありがとうございました。このSSはルチル文庫「郵便配達人は愛を届ける」(こちら)の番外編です。

2016-12-19